2011年11月26日土曜日

誰がブログを殺すのか。

幾つかのブログの真性引き篭もりに対する言及を見ていると、頭が痛くなってくる。

かつて、俺たちはインターネットだった

かなり名の知れたブロガーでさえ、この程度の事しか書かない。
だから僕はこんな糞エントリーを書かざるをえない事態に追い込まれた。

























菊千代は死んだ。
なぜだ。


菊千代は死なない。
なぜか。

















「菊千代はなぜ死んだのか。」
その問いに対する回答は、完結にして明瞭である。



映画だからだ。




映画だから菊千代は死んだ。
映画だから菊千代は死んだのだ。
映画であるが故に菊千代は殺されたのである。

誰が菊千代を殺したのか?
愚問である。黒沢明である。
黒沢明に殺されたのである。

即ち、菊千代は死なない。
ここは映画ではない。

即ち、菊千代は死なない。
黒澤明はもういない。

黒澤明は死んでしまったのだ。
それでも僕等は生きている。
生きているから生きねばならない。
ブログを書いて、生きねばならない。














菊千代は何故死んだのか。
その問いへの答えは、七人の侍という映画の中にある。

菊千代は死に値する大罪を犯した。
因果応報その罪を背負い、殺されるべくして殺されたのである。




菊千代が犯した罪とは何か。
僕達は今一度その罪を思い出さねばならない。






七人の侍というのはシンプルな映画だ。

前半は明るく愉快な空気に支配されており、後半は沈痛で重苦しい空気に支配されている。そして、その前半と後半を区切るのが菊千代の言葉である。1つの言葉である。その言葉こそが菊千代が殺された理由である。彼は死ぬに値する言葉を吐いた。故に殺されたのだ。菊千代は言った。「恥を知れ、恥を」、と。いや、正確に言えば違う。彼が言ったのはもっと致命的な一言だった。「それでも馬か、恥を知れ、恥を。」






「それでも馬か。恥を知れ、恥を。」
それはあまりにも致命的な言葉だった。


何故それが致命的であったかを理解するには、菊千代という人物がどのような人物であったかを知らねばならない。七人の侍には、嘘が沢山潜んでいる。嘘と偽りで出来た映画である。嘘と偽りについて描かれた映画である。その中においても、菊千代は異色の存在である。何故ならば、菊千代は嘘だからである。菊千代が菊千代であるというのは嘘である。それも公然の嘘である。

菊千代は侍ではない。
そして、菊千代ですらない。




彼は侍に憧れ、侍として生きようとした。
自らを偽るために、家系図を盗んだ。
侍の家系図を盗んだのである。

そしてそこには1つの名前が書かれていた。
それが「菊千代」である。




即ち、菊千代は菊千代ではない。
家系図に書かれた偽の名前である。
菊千代などという人物は存在しないのである。
それにも関わらず、菊千代は菊千代であり続けた。
火縄銃の一撃を胴体に喰らい息絶えるまで、彼は菊千代だった。

菊千代は何者だったのか。
それを僕等は誰も知らない。
自分が何者なのかという問いに対して
「菊千代である」という生き方をもって応えた。
菊千代は菊千代として生きようとし、菊千代として死んだのである。




もしも僕が黒澤明であったならば、「七人の侍」という映画は「七人の侍」というタイトルにはしなかっただろう。「6人の侍と1人の経歴詐称者」とか、「6人の侍と荒野の荒くれ者」とか、そういったタイトルになっていただろう。僕だけではない。あの千秋実ですら、「あれは7人の侍ではない。6人の侍と1人の半端者だ」と言ったのである。言い切ったのである。ところが、黒澤明は違ったのだ。

偽の家系図により生み出された「菊千代」という嘘の塊を、こともあろうか侍だと認め、「七人の侍」という映画の中に取り込んでしまった。彼を侍だと認めたのである。菊千代は侍であると認められたのである。黒澤明に認められたのである。黒澤によって赦されたのである。それが黒澤の優しさである。黒澤明という人は、優しい人なのである。仏なのである。その黒澤が、あんなにも優しかった黒澤が、菊千代を惨殺したのである。無惨に殺害したのである。それには、それだけの理由があった。





スティーブ・ジョブスがそうしたように、菊千代は世界の仕組みと戦った。
菊千代は農民として生まれながら、農民であることを受け容れなかった。
侍に生まれなかった者は侍ではない。その常識を乗り越えようとした。
社会のルールを乗り越えて、その先へと進もうとした。
侍になるという夢を諦めず、叶えようとした。
そして菊千代は菊千代になった。
夢を叶えたのである。




しかし、彼はミスを犯した。
菊千代は言ったのである。




「それでも馬か。恥を知れ、恥を。」
致命的な失言だった。


黒澤は激怒した。
烈火の如く怒り狂った。
五郎兵衛が、久蔵が、菊千代も討たれた。
黒澤明の逆鱗に触れ、みんな殺されたのである。




「それでも馬か。」
一頭の馬に対して発せられた菊千代の一言。
この失言が全てを変えてしまったのだ。




百姓に生まれながら、百姓として生きようとしなかった菊千代。
百姓に生まれながら、百姓として生きる事を否定した菊千代。

その菊千代が、馬として生まれ、馬として生き、明らかに馬であり、どこからどう見ても馬である、正真正銘の馬であり、正々堂々逃げもせず隠れもせず馬として生き続ける馬に対して、「それでも馬か」という壮絶なブーメランの投打の痛撃を放ったのである。足蹴にしたのである。「恥を知れ」と罵ったのである。恥を知るべきだったのは馬ではない。言うまでもなく菊千代である。恥を知るべきは菊千代だったのだ。偽物の家系図を盗み、盗んだ家系図に書かれていた偽の名前を名乗り、自らを偽り、嘘をつき、刀を手に取り、まるで侍のように振る舞った。その菊千代が決して超えてはならなかった一線。それこそが「それでも馬か」でなのである。




その一言を聞いて、黒澤は激怒したのである。
その一言によって、菊千代は殺されたのである。「私は東ゴート人とカンガルーを差別する」と言い放ったグイドに激怒し自らの手で銃を手に取り撃ち殺したロベルトベニーニと同じように、黒澤は激怒し、菊千代を殺害し、それだけでは収まりがつかず、菊千代の一味を片っ端から皆殺しに殺していったのである。





七人の侍。
それは異物の映画である。
侍の中に偽物の侍が居る映画である。
菊千代という異物が混じっている映画である。





しかし、七人の侍に登場する異物は菊千代だけではない。
そしてそのもう1人の異物こそが、七人の侍という物語の主題である。





菊千代とは別の、もう1人の異物。
それが勝四郎である。






七人の侍という映画は、侍の映画である。
しかし、七人の侍に登場する侍はただの侍ではない。飢えた侍である。一杯の茶の代金にすら、事欠くような侍である。喰うに困り、眠るに困り、着るにも困った侍である。誰もが皆、貧じ、鈍じ、人生に行き詰まった侍である。安定した職もなく、温かい家庭もなく、将来の保証もない、人生が完全に終わっている侍である。未来の見えない侍ばかりである。菊千代を含めて、不確かな人生を歩んでいる侍ばかりである。ところが、その中に1人だけ、異物が居る。確かな人生を歩んでいる侍が居るのである。七人の侍という映画においてただ1人、帰る家を持つ侍が居る。それが勝四郎である。




勝四郎は金持ちである。
金持ちの侍の生まれである。

故に、金を持っている。
ただ1人金を持っている。



そして、その金が重要な役割を占める。勝四郎の財布が無ければ、七人の侍は終わっていた。開始早々に終わっていた。しかし終わらなかった。七人の侍という映画が今にも終わろうとしていた瞬間に、勝四郎が金を出したのである。小銭をほおりなげたのである。その融資により、その資金により、七人の侍という映画は続いてゆく事になる。勝四郎という1人のいいとこの、温室育ちの侍こそが、スポンサーだったのである。エンジェルだったのである。彼が出した金により、七人の侍という映画は最後まで続いたのである。



そして、その勝四郎が映画の中で成し遂げた事。
それは唯一、セックスである。
勝四郎はセックスをしたのである。





つまり、七人の侍という映画は、勝四郎が金を出し、勝四郎がセックスをする映画なのである。勝四郎がセックスをするために、金を出す映画なのである。勝四郎がセックスの為に屍を築き上げ、屍を乗り越えセックスをする物語なのである。より正確に言えば、勝四郎がセックスの為に金を払い、素人の処女の少女と生中だしのセックスをする物語なのである。生まれも育ちも恵まれた「おぎゃー」の時点で勝ち組の侍が、食うも眠るもままならない、負け組の侍の中に場違いな乱入を行い、そしてセックスをする物語なのである。セックスの為にストーカーをし、セックスの為に土下座をし、セックスの為に金をだし、セックスするだけの物語である。その物語の本筋からは逸れた所で、野武士が来たり、侍が戦ったり、菊千代が裁かれたりする。けれども、物語の本筋は、勝四郎のセックスである。勝四郎が金を出さなければ終わっていた。しかし終わらなかった。なぜならば、勝四郎のセックスにかける情熱は本物だったからである。勝四郎はセックスがしたかったのだ!故に勝四郎は金を出した。惜しみなく金を出した。土下座までした。必死になって追いかけた。断られても、断られても、セックスに追いすがった。そしてセックスしたのである。勝四郎はセックスをしたのである。しかも相手は美人の処女の少女である。風俗とかではない。プロではない。アマチュアである。素人である。中古女ではない。処女である。ぶさいくではない。美人である。しかも処女の素人である。処女の素人の少女である。許し難い行為である。なぜ許し難いかというと、僕だって処女の素人の少女としたいからである。しかしながら、勝四郎と違い、金が無いのである。勝四郎と違い、職がないのである。金が無いから出来ないのである。処女の美人の少女と後腐れ無いセックスが出来ないのである。金があれば僕だって現金で処女の少女の横っ面を札束で引っ叩いてニコ生とかTwitterとかアメーバピグとかで処女とセックス。セックス。セックス。僕はセックスがしたいのである。女という生き物は金さえ与えれば股を開くのである。セックスは金である。金とはセックスである。勝四郎がそれを教えてくれたのである。僕は勝四郎からセックスの全てを学んだのだ。セックスに必要な事は全て勝四郎が教えてくれた。セックスに必要なもの。それは金である。現金である。女は金である。金さえあれば好き放題セックス出来るのである。勝四郎はセックスによってそれを教えてくれたのである。セックスによって証明したのである。そして、このブログのこのエントリーに書かれている真実はただ一つ、セックスがしたいという叫びである。このエントリーで成されている主張はただ一つ、セックスである。それもただのセックスではない。処女とのセックスである。美人とのセックスである。少女とのセックスである。コンドーム無しのセックスである。生中出しのセックスである。キスを伴うセックスである。僕はセックスがしたいのだ。そして僕はセックスが出来ないのだ。何故か。答えは簡潔にして明瞭である。僕は侍ではない。そして僕には金が無い。故にセックスが出来ないのである。生中出しのセックスが出来ないのである。処女とのセックスが出来ないのである。悔しい。本当に悔しい。勝四郎が処女の少女の美人の素人とセックスをしている間にも、僕等は飢え、苦しみ、寝るにも困り続けているのである。そんな私達を踏み台にして、勝四郎は小銭を散蒔き、そしてセックスするのである。生中出しのセックスをし続けるのである。この広い地球上では、広井王子ですらセックスをしているのである。金があるからセックスし放題なのである。汚くてキモイおっさんでも美人の少女の処女とセックス出来るのに、それが僕には出来ないのである。勝四郎と違い金が無いから出来ないのである。セックスがしたいのだ。セックスがしたい。僕はセックスがしたい。処女とセックスがしたい。少女とセックスがしたい。美人とセックスがしたい。美人の処女の少女とセックスがしたい。心ゆくまでセックスがしたい。しかも勝四郎のように後腐れ無く関係を断ちたい。セックスだけがしたい。他の事は一切いらないからただセックスがしたい。とにかくセックスがしたい。もうセックスが出来るならツイッターでもはてなブログでもなんでもいい。とにかくセックスがしたい。セックスの為ならなんだってする。ブログだって書く、dota allstarsだってする。wardだって買う。gemだって持つ。gangにだって行く、tpなんて2枚持つ。とにかく僕はもうなんでもいいから、セックスがしたいのだ。このエントリーに潜む真実はただ一つ、僕は美人の処女の少女と生中出しのセックスがしたいという紛れもない事実だけなのである。遂に僕はブログにおいて真実を語る事に成功したのだ。今日は記念日である。セックスの記念日である。真実について語る事が出来ました記念日である。

















「本当にセックスですか?」
疑う僕にまつもとさんは言った。
「本当にセックスですよ。」







「信じられませんね。虫でセックスだなんて。」


   「それはね、はんかくさんが島根を知らないからです。」


「島根ではみんなそうなんですか?」


   「みんなではありません。私は違います。」



「まつもとさんは違うんですか?」


   「島根という所は、特別な場所なんです。」


「特殊な場所?」


   「私のような天才は、外貨を稼ぐ。」


「他の人は?」


   「セックスをするんです。」


「よくわかりませんね。」


   「のみこみがわるい。」


「すみません。」


   「謝ることではありません。」


「でも、どうしてセックスなんですか?」


   「はんかくさん?」


「はい。」


   「天才の作り方を知っていますか?」


「いいえ、、、わからないです。」


   「いいですか。天才を作る方法は一つしかありません。」


「どうやって作るんですか?」


   「セックスです。」


「セックス!?セックスで天才が出来るだなんて、初耳ですよ。」


   「アリストテレスも、ピカソも、ゲーテも、
    みんなセックスです。全部セックスなんです。
    天才は努力や環境によって生まれるものではありません。
    セックスによって生まれるものなんです。」 


「驚きましたね、セックスだなんて。」


   「島根というところはね、全てがセックスなんですよ。」


「よくわかりませんね。」


   「島根は大変なんです。
    何も無いんですよ。
    海もない、山もない、砂丘もない、うどんも無い。
    もちろん竹島なんてものはありません。あれは韓国領土です。
    そんな島根に唯一あるもの、それが天才なんです。」


「天才、ってたとえば?」


   「わたしです。

    島根にとって、わたしのような天才が全ての源なんです。
    わたしのような、僅かコンマ数パーセントの天才が外貨を稼ぐ。
    残りの平凡な人達は、明日の天才を作る為にセックスをする。
    わたしたち天才が稼いだ外貨は、セックスによって巡り巡るのです。」



「シェア、ですか。」



   「そうです。
    セックスによってシェアされるのです。」


「でも、セックスだなんて効率が悪くありませんか?
 みんなで真面目に働いた方が……。」


   「はんかくさんは何もわかっていませんね。」


「はい。」


   「能無しは働かなくていいんですよ。
    邪魔なだけです。
    迷惑なだけです。
    足手まといです。
    足を引っ張るだけです。
    一生家から出ないでください。
    社会に出てこないでください。

    天才は富を作る。
    無能な人は天才を作る。
    それが一番なんです。
    それが島根なんです。」


「けれども、どうするんですか?
 どうやってセックスをするんですか?」


    「虫、ですよ。
     虫を利用してセックスをするんです。」


「そんな話、聞いたこともありません。」


    「無知は誇るべきことではありません。」


「すみません。」


    「いいんですよ。そんなに縮まらなくても。」



「では、お伺いします。
 虫で、どうやって、セックスを?」


    「写真です。
     島根では、セックスをしたい時は虫の写真を撮ります。
     そして、虫の写真をインターネットにアップロードするんです。」


「それで、セックスが出来るんですか?」


   「そうですよ。
    虫の写真をインターネットにアップロード。
    それだけで、セックスが出来るんです。
    それが島根です。」


「まるで天国のようだ。。。  にわかには……」


   「島根では全てがルールに基づいて運用されています。
    虫にだって、厳格なルールがある。」


「厳格なルール?」


   「そうです。
    たとえば、はんかくさん。」


「はい。」


   「アナルセックスをしたい時は、どうしていますか?」


「経験が無いからわからないです。」


   「では、想像してみてください。
    アナルセックスをしたくなったら、
    はんかくさんなら、どうしますか?」


「想像も付きません。」


   「アオスジアゲハです。」


「アオスジアゲハ?」


   「そうです。
    アオスジアゲハの写真をアップロードする。
    それがアナルセックスの合図なんです。
    アナルセックスが可能な異性からコンタクトが来る。
    そして、アナルセックスが可能になるのです。」


「けれども、それでは困るでしょう。」


   「何がですか?」


「アオスジアゲハの写真は夏にしか撮れない。」


   「そんな事はありません。
    幼虫でも、卵でも、なんでも良いのです。
    それに、夏に撮っておいた写真をストックしておけばいい。
    アナルセックスを愛する人は、アオスジアゲハを撮り溜める。

    それが、島根なんです。」


「その手がありましたか。」


   「ノコギリクワガタは、競泳水着。
    コガネムシは、ガーターベルト。
    ウンモンスズメは、巨乳。
    ウチワヤンマは、つるぺた。
    トホシオサゾウムシは熟女。
    マスダクロボシタマムシは中学生。
    ドロハマキチョッキリは幼女。

    剃毛プレイがしたいなら、ヒゲナガオトシブミ。
    フェラチオがしたいなら、アカクビボソハムシ。
    スカトロがしたいなら、コウヤハナカミキリ。

    島根では全てが明文化されています。
    島根県民は誰もがそのルールを暗記しています。

    そして、それらを組み合わせる事で、
    あらゆるニーズが満たされているんです。

    こんなに効率的な天才の作り方は他にありません。」


「島根は素晴らしいですね。」


   「本当に島根は素晴らしいところですよ。」


「けれども、そんな人が本当に居るのですか?
 虫の写真を必死でインターネットにアップロードするだなんて。
 わたしは1人として知りません。見た事がありませんよ。」


   「観測範囲の狭さを自慢するのはおやめなさい。
    みっともないだけですよ。」


「ごめんなさい、まつもとさん。
 本当にごめんなさい。」




















>かつて、俺たちはインターネットだった

あの、敵がなんなのかわかんないけどとにかく戦ってる雰囲気っていうのは、ある時代にネットで文章書いてた人に共通のもので、かくいう俺自身がわりとそのタイプです。「おまえの敵はどこにいる?」と聞かれたら、ものすごい勢いでシャドーボクシングしながら「俺だ! 俺が敵を作った!!!」とか眦を決して答えるタイプの人。


はー、そうですか。うんざり以外の感想が浮かんでこないね。僕が書いたエントリーの中身には一切触れられていない記事。これが反吐が出るってやつか。本当にインターネットって糞だって事をよくよく思い出させてくれるわ。僕は自らが憎み忌憚するものをはっきりと認識していない限り決してブログで何かと戦ったりしない。ここでスルーしたり逃げたりすればブロガーに生まれた意味がないと思うからこそ、思い続けてきたからこそ僕はブログを書いてきたし、書き続けてきた。そしてこれから先も書き続けるだろう。件のエントリーで僕が憎み、忌み嫌い、非難したものは「違う物語、違う記憶、違う結論を都合良く捏造する人。」だ。「自分の真実の物語」から逃げようとする人間だ。






そういえば、先日インギーと内田裕也と僕の3人で白木屋に飲みに行った時に裕也さんが核心を突いた話をしていた。




「あのさぁ、あのね。
 最近ね、あれよ。

 ロックでもねーやつが。
 ロックを騙ってね。
 ロックだって言うぅ。

 スターでもなんっでもねーやつが。
 スターだぁ、スターだぁ。
 言ってるんだよ。

 ロックスターだって。
 ふざけんなだよ。」



裕也さんはいつも良い事を言う。
この段落で僕が行った事。それは物語の捏造だ。
「裕也さんとインギーの3人で白木屋で飲んだ」という物語を捏造したのだ。

即ち、僕は岡田有花と同じ事をした。嘘の物語を作り上げたのだ。どうしてそんな捏造を行ったかって?そりゃあ決まってる。自分を大きく見せるため。だってそうだろ。中学もまともに出てないような引きこもりのdota allstarsプレイヤーの書くブログなんで誰も読もうと思わない。読みたくない。説得力を感じない。だからこそ僕は「俺は裕也さんやインギーと飲むくらいの大物なんだぜ」って自らを詐称した。自らの利益の為に裕也さんを利用し、自らの利益の為にインギーを利用した。

それを行う事によって、嘘の物語の捏造を行う事によって、そういった行為を取る人間を非難したのだ。強く非難したのだ。インターネットはそういう人々で満ち溢れている。「誰々と会いました。素敵な人でした。」本当に素敵かどうかなんて関係無い。問題は「誰かの素晴らしさを認める自分」を演出することだ。人脈を誇ることだ。そしてそういった他者への称賛は、巡り巡って自分へ帰ってくる。捏造された称賛は回収可能なのだ。本当に素敵な人だったか、本当に素晴らしい人だったかは関係ない。人間誰しも、他人とあえば「なんとなくいい人っぽい」振る舞いをしようと務めるだろう。素敵な人っぽく笑おうと務めるだろう。そしてそれを褒めるのは簡単だ。本当に素晴らしい人か、本当に素敵な人か、そんな事は関係ない。それどころか、本当に存在していたかどうかすらどうでもいい。「裕也さんとインギーと飲みました」と書いてもその物語が本当であるか、嘘であるかを確かめられる人はいない。永遠のブラックボックスの中で誰1人として真実をのぞき見る事が出来ない。そういった捏造される物語、捏造される素敵さ、捏造される些細な美談によって、本当の素敵さや本当の素晴らしさは埋没し、誰の目にも届かず消えて行く。それに怒っていたのだ。




僕が裕也さんとインギーを用いて書いた物語は、自分を大きく見せる為の捏造だけれど、その次の段落で書いているように、物語の捏造は上方向に限ったものだけではない。下方向にも、あるいは平行方向にも起こる。自分を小さく見せた方が都合がいい時は、人は自らを可能な限り小さく見せようとするし、自分を他の何かであるように見せた方が良い時は、自分を他の何かであるように見せようとする。

たとえば、ロケンローでもなんでもないのにロケンローを騙った樹木希林のヒモとか、大卒なのに高卒を騙って就職した市営バスの運転手とか、ただの移民なのに亡命キューバ人を詐称した共和党の州知事とか、特攻隊員ではないのに元特攻隊員を騙った俳優とか、いじめられっ子を自称していたのにいじめっ子だったと暴露されたUFCのチャンピオンとか、ロックでもスターでも無いのに「俺はジムモリソンの生まれ変わりだ」と真顔で言い出すパールハッカーとか、どこからどう見ても人間なのに金髪豚野郎を自称して世界中の豚さんをブヒブヒ言わせた天才落語家とか、普通じゃないのに普通というストーリーを捏造した(そして捏造し続ける)岡田有花とか、社長で金持ちで暖かい家庭を持つのに僕が一番最初に使い出した「僕」という一人称を無断で使用するじゅんじゅんとか、ハードコアゲーマーでもなんでもないのにハードコアゲーマーを自称する人とか。

そういった捏造者の象徴的存在こそが、「ロケンロー」の簒奪を行いイメージロンダリングをしながらヤクザの誕生日会で口パクで歌い、挙げ句ストーカーで逮捕された内田裕也だったんだ。インターネットはそういう人間で溢れている。内田裕也みたいな奴らで溢れている。自らの都合の良い属性を簒奪する人間で溢れている。物語を造り替える人間で溢れている。たとえば1人だけ例をあげておくと、件のエントリーで裕也さんとインギーの3人で白木屋に飲みに行った物語を捏造した真性引き篭もりhankaku何某とかね。だからこそ僕はそれに憤りを覚えていて、憤りを覚えており、憤りを覚えるとブログに書いた。

そのエントリーに平然と捏造した物語を被せてくる神経って何なんだろう。
僕がブログで非難した行動を、そのまま被せてくる人間って一体何なんだろう。

糞くだらねえ物語を捏造して「俺たち」なんて言葉を被せるとか本当にうんざりするね。僕がdota allstarsしてた間、どこでdota allstarsしてたんだ?してないだろ?違うだろ?なのに何故僕のdota allstarsを簒奪しようとするんだ?都合良く利用しようとするんだ?「あんまり熱心な読者ではなかった」とか言いながらしたり顔で真性引き篭もりhankakueisuuを騙ろうとするんだ?知らないなら黙ってろよ。僕はおまえの裕也さんでもなければおまえのインギーでもない。「真性さん?」ふざけんなよ。それはロックンロールをロケンローと呼ぶ事と同じだろ。俺はおまえのロケンローじゃない。ブロガーでしかない。




念のため重ねて書いておくと、僕が怒ってるのは「熱心な読者じゃないのに語ろうとする人間」に対してじゃない。「ブログを読もうとしない人間」に対してだ。僕がブログを書いた。それは読まない。読むつもりもない。その上で好き勝手語ります、という態度を取る人間どもに対してだ。僕がブログで非難した行動を次の瞬間に平然と被せてくる人達に対してだ。

そういう行為を取るのなら、熱心でない読者、通りすがりの読者、いわゆる信者的な読者、そのどれであっても同じように腹が立つし、読んで好きなように解釈してくれるならどんな読み方であろうと、どんな読者であろうと歓迎する。

僕がブログを書き続けてきて最も煮えくりかえったのはあくまでも、読みもせずに好きな事を言うだけ言って書き捨てる連中の存在だ。真性引き篭もりhankakueisuuはああだ、こうだと好きな事を言うが、僕がいついったいどこでそういう事を書いたか?と聞き返すと「あはは真性引き篭もりさんはいい芸風してるね」などと意味不明な対応をする連中だ。ブログに書いたことを全く読まずに「自分の物語」を、自分の「真性引き篭もりhankakueisuu」を好き勝手に捏造する。そういう連中に心底うんざりさせられ続けてきた。

そしてそれを象徴するような糞ブロガーが僕の目の前に今正に登場したってわけだ。何が書かれているかなんてどうでもいいなら、憂うふりして無自覚に、自らの都合のよい物語の為に利用しないでくれ。ブログを語るなら最低限ブログを読んでからにしてくれ。書かれている内容を読んでくれ。その気が無いなら黙ってろ。




こういうid:nakamurabashiみたいな連中がどうしてそういう簒奪行為を行うのかは、岡田有花を見ればわかる。彼らが行う簒奪行為は、全て利益の為だ。ここで言う利益は金の事じゃない。もちろん金の事も含まれているけれど、「共同体」としての自らの利益の為だ。馴れ合いの為だ。彼らは現実世界(あるいはウェブサイト)から何かを盗み取り、それを取り巻きに配る事によって、自らの地位を日々向上させる。自らを満たしている。ソーシャルの要塞を築き上げ、その奥底に身を隠す。

僕はそれを常に拒否り続けてきた。ソーシャルの畳鰯の鎖帷子を拒否り続けてきた。一切否定はしていないけれど、個人としては拒絶し続けてきた。mixiもやらない、twitterもやらない、はてなもやらない。可能な限り繋がらない。繋がりを持たない。結びつきを持たない。そういう考えで生きていた。社会性というものを持たない僕にとって、自らが誰かと接点を持つという事は、迷惑行為を行うという事とイコールだ。だから可能な限り接点を持たないようにしてきた。

ところが、そういう生き方をしていると、ソーシャルの畳鰯の鎖帷子を着重ねようとする連中に都合良く利用される。都合の良い真性引き篭もりhankakueisuuを捏造して鰯にして干して畳鰯にして鎖帷子を編み上げて着飾るんだよ。ちょうどid:nakamurabashiがそうしたようにね。




だからこそはっきり否定しておくが僕はモテでも無いし非モテでも無い。リア充でもなければ非リア充でもない。オタでも無ければ非オタでも脱オタでもなく、無論のことゲーオタでもない。ヒゲナガゴマフカミキリでも無ければオオセンチコガネでも無い。スグリゾウムシでも無ければハグロトンボでも無い。ツヤアオカメムシでも無ければヒゲナガオトシブミでも無い。ただのブロガーでしかない。dota allstarsを止めようとしているブロガーでしかない。それはブログを書き始めたその日から、まったく変わっていない。もしもこの地球上にdota allstarsを止めようとし続けて居るブロガーが存在するならば、「この人も」とか「俺たちも」と言われたって、何も腹が立たない。ところが連中は真性引き篭もりhankakueisuuを勝手に定義し、真性引き篭もりhankakueisuuを勝手に面白がるんだよ。僕がどうあるか、僕が何と戦っているか、僕が何を書いたかなんて事は完全に無視してね。




僕のブログを馬鹿にするのは結構。ネガティブな批評も結構。DISるのも結構。嗤うのも結構。けれども、それをしたいなら最低限ブログを読んでくれ。読まないならクソくだらない話で絡まないでくれ。僕がざっとインターネットの反応を見た限り、「スカスカ」と書いたのはid:nakamurabashiだけだし、「マジキチ」と書いたのもid:nakamurabashiだけだ。おまえだけだ。「俺にとって都合のよい物語」の為に存在しない物語を作らないでくれ。インターネットの声を勝手に捏造しないでくれ。


あの手の声が届かない人間なんていないだろうと、そんなやつはインターネットにはいるはずねえよな、という思い込みが俺にあったわけです。まあもちろん誤解だったわけですけど。
ああそうだよな。
いや、そうでもないか。




僕はあのエントリーを書いた時、100人くらいに読まれればいいと思った。150人くらいに読まれれば御の字だと思っていた。2012年のインターネットがどういうものか知らなかったし、それ以上に自分のブログが誰かに読まれるなんて想像もしてなかった。あのエントリーの一日前に投稿した、僕のdota allstars人生の全てを注ぎ込んだキャラランクエントリーが壮絶に0バズ0ブクマとかで爆死してたからね。だから、自分のブログが大勢の人に見られて本当に驚いた。インターネットって最高だと思った。僕が知っている以前のインターネットは、id:nakamurabashiみたいにブログを読まずに好き勝手言う人が多数派を占めていたのに、今のインターネットは違う。ただ見るだけではなく、読んでくれた人が多くて本当にびっくりした。「真性引き篭もり」とかいう明らかに地雷なタイトルのブログに自分のパーソナリティがあるTwitterとかで言及するとか、あり得ない事だと思ってたから本当に驚いた。2012年のインターネットって最高だなあ、と思った。




「かつて、俺たちは、インターネットだった。」
ああ、そうだよな。
あんたみたいなのがインターネットだったよ。


あの手の声が届かない人間なんていないだろうと、そんなやつはインターネットにはいるはずねえよな、という思い込みが俺にあったわけです。まあもちろん誤解だったわけですけど。
何が書かれていても一切読まずに芸風だとかまたやってるよとか好きな事を言ってニヤニヤしてるだけの連中な。他でもないそういう奴らこそがブログを殺すんだよ。ちょうどあんたみたいな奴な。お願いだからとっととインターネットから消えてくれ。クソ胸くそ悪くて邪魔で迷惑なだけだから。







インターネットは死んだとか、そんな話をする事自体がアホらしいね。

取り合う気にすらならない。たとえば岡田有花のような人達が束になって幾億の物語を捏造し、幾億の現実を抹殺したところで、インターネットは殺せない。何故ならばこの世界は映画ではなく、黒澤明は存在しないからだ。誰もインターネットを殺せやしない。誰もブログを殺せない。誰もブロガーを殺せはしない。死に追いやる事など出来はしない。インターネットは死んだとか、誰がインターネットを殺したとか言いだす奴らは、ただインターネットに死んでもらった方が都合がいいから死んだという物語を捏造しているだけだ。

あの日インターネットを懸命に生きた僕達は、あの頃よりもずっと素晴らしいインターネットで何時までも永遠に何も変わらず生き続けているし、僕はブログを書き続けている。インターネットに勝四郎のような人間は居る。インターネットに菊千代のような人間も居る。それどころか、黒澤明を気取ろうとする奴まで居る。けれども誰も死なないんだ。何も死なないんだ。ブログは死なない。ブロガーは死なない。ここは映画じゃない。ここはインターネットだ。何一つ死なない。勝四郎のように小銭を散蒔いて誰かを死に追いやる人間がこの世のどこかに存在するなんてのは、くだらない思い上がりなんだよ。おまえのくだらない妄想なんだよ。